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医療法人 福島病院
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益子終戦まで |
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福島 成夫 |
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昭和20年6月30日、東武伊勢崎線加須駅で、寝具・身の回りの品物をチッキで送り乗車、久喜駅から東北線で小山駅へ。そこから水戸線で水戸方面に向い、下館駅で下車する。これより真岡線で益子に向う。列車は、先頭に機関車が後ろ向きで客車に連結して、ホームに停車していた。発車して茂木駅に向って久下田、寺内、真岡、次が益子。益子駅でチッキの品物を受け取り、駅前に立つと、これが町かと思われるような鄙びた典型的な田舎町だ。
待合室で、大学関係者より明林寺を指示された。ほかに鶏足寺、閑空院に分宿した。駅を背に路線沿いに右に百米(メートル)ほどで右曲がりの踏切を渡り、緩い登りの砂利道を進むと、小貝川に架かる塙橋を渡る川の両側は、広大な田圃だ。尚五百米(メートル)行くと十字路があり、右に向って三百米(メートル)で左側に見るからに貧しそうな明林寺に着く。広くない境内の右に庫裡、左にお堂、正面に本堂。本堂は一般的な造りで、中央に本尊の祭壇。周囲が畳敷きになっており、室外に濡れ縁が張り出していた。小生は左臆の六畳の座敷に落ち着いた。ここまでが益子の第一日である。
何時、誰とか、細かいことは記憶にないが、思い出されることを断片的に書いてみる。 |
| 哀れな食事 |
「学生さん、夕食ですよ。」
というおばさんの声に長机の食事を見ると、麦が殆どの飯、みそ汁は底が透けて見え、具は何だかわからない。それに漬け物が少し、ひどい。ほかには蒸し芋だけの事もあり、一番の最悪は麻芋だった。これはどうにも食えなかった。あまりのひどさに、近所の農家に寄寓していた教授に、酷い食事を持って行き、
「明日は腹が減って動けないので、休講にしてもらいたい。」
と交渉し、許可された。 |
| ホームシック |
そんな侘しい生活の夏の夕暮れ、寺の縁側に座っていると、駅の方から「ビービー」という物悲しくなる汽笛の声が聴こえると寂しく、家が思い出された。あの汽笛の声は、今も忘れられない。 |
| 寮雨 |
寺だけでなく農家は、よっぽど豊かな家でないかぎり便所は別に建てられていた外便所である。皆、夜になると燈火管制で真暗闇でもあり面倒なので、濡れ縁から寮雨と称して放尿するものが多かった(全員かな)。放尿が何日か続いた或る日、おばさんが庭掃除をしていた。
「学生さん達、毎晩縁側からしょんべんしているね。」
と言われた。
「なぜ解ったの。」
と聞いたら、
「地面に青苔。」
と言われ、見ると一面青苔が発生していた。 |
| 蚤 |
| 蚤が大発生した。毎夜、布団の中でぼりぼり掻いていた。我々の部屋では、食事用の長机を全部集め座敷に引きつめ、その上に布団を引いたら、蚤も飛び上がれまいと試してみたが、まったく無駄で敵はゆうゆうと飛び上がってきた。蚤を取るには、敷布上を動いているやつを指につばをつけて捕まえるのだが、飛んだり走ったりで取れない。誰だったか、一晩で何匹取れるか挑戦すると宣言し、毛布に一度寝て、頃あいをみて明かりを照らすと毛の中をもそもそ動いているので捕まえやすく、五十六匹取った強者がいた。 |
| たばこ |
益子はたばこの産地で、寺の周囲にもたばこ畠があった。夜、畠に入り大きい葉を失敬して、本堂の壁に縄につるして陰干ししてから細く刻み、コンサイスの紙で巻いて吸っていた。吸ったことのない小生は、初めて見ていたが、悪友に
「吸ってみろ。」
と嗾けられ、口中で吹かしていたら、
「肺まで吸い込まなけりゃだめだ。」
と言われ、思いきって吸い込んだ時の強烈は生態反応は今でも忘れない。目は廻る、気は遠くなり苦しいだけでこんな物と思ったのだが、その後なぜか吸うようになってしまった。益子のたばこは、ベイ葉とだるまの二種類があり、前者はやや黄色みを帯びしっとりしていた。後者は褐色でバリバリ乾燥していた。帰省時、両方一貫目ずつ買って帰り、皆から大変喜ばれた。 |
| 田な草取り |
| 誰に誘われたか三人ばかりで農家に手伝いに行った作業は、田な草取り。稲の周囲の雑草をかき取り、土の中に押し込む。作業の目的は、その日、昼夕食に銀しゃりが食べられるからだ。作業は、一点の雲もない夏空の強い日ざしの下、田圃は小貝川西側松林まで千米(メートル)はあろうかと見える広大農地の真中でだ。午後作業を始めて間もなく、突然空襲警報音が町の方から聴こえたが、益子の田舎町で工場もなく心配ないと思い作業を続けていると、南方上空より爆音と共に四機編隊のグラマンが飛来。我々の上空で反転、宇都宮方面に急降下、機銃掃射と激しい爆発音が聴こえた。また我々の上空に戻って来て、頭上で旋廻して再度つっ込んで行く、肝を潰し、白シャツ白ズボンでは見つかって射ち殺されそうな気がして、全員シャツを脱ぎながら全力で松林に向って走り出したが、農道は曲がりくねり林まで遠いこと遠いこと。息が切れ、諦めて畔道に倒れ込み上空を見ると、紺碧の空には空襲を終えた敵機はなく、爆音も聴こえなかった。宇都宮陸軍飛行場(現自衛隊)を攻撃に来たものだった。作業開始、日が暮れて農家に帰り風呂に入り、いよいよ待望の夕食、目に滲る様な真白い飯を御馳走になった。疲れたので早めに床に付いたが、ズボンをまくっていたので、膝関節の上下を蚋(ぶよ)にさされたのがかゆくなったが寝込み、翌朝目覚める。さされた両足が丸太の様に腫れ上がり歩けず、一日寝ていた。 |
| 新型爆弾 |
八月六日、広島に新型爆弾が投下されたニュースが飛び込んで来た。広島市の同期生(名前がわからない)がいた。彼は翌日早朝帰ったが、それきり益子には帰らず、彼は今も無事でいることを心より祈る。その夜、東京から帰ったやつが隣に寝た。つっつくので
「何だい。」
と聞くと、
「東京では、日本が無条件降伏すると噂が出ているぞ。」
というので、
「激しいやつがいるから黙っていろよ。」
といったが、新型爆弾が気にかかった。 |
| 玉音放送 |
八月十四日、教授より明日正午より重大放送があるので、各自寺で聞くようにとの通達があった。十五日も、早くから快晴無風の暑い日だった。正午前、寺の庫裡に全員集合。何となく正座をしてラジオに向かった。いよいよ正午。アナウンサーの、
「これより、天皇陛下の玉音放送があります。」
と放送があり、初めて聞く陛下のお声で玉音放送が始まったが、雑音が多くよく聞き取れなかったが、途中、
「堪え難きを堪え、凌ぎ難きを凌ぎ」
と聞き取れるに至り、自然と涙が溢れてきた。中には、こらえ切れず号泣する者もいた。放送終了後、しばらくは皆、不安、悔しさ、悲しさ、いろいろな思いが去来し、放心状態であった。 |
| 明林寺全員協議会 |
日本刀を引き抜いた誰かが言い出した。
「今後について、皆で話し合う。」
と。
皆、車座になって集まった。まず、敵は鬼畜米英である。男は去勢されて、奴隷としてこき使われるだろう。そこで、山中にでも籠もって時を待とう。益子から近い山となると、奥日光方面がよかろう。それには、先ず先遣隊は出発して場所を選定してくる。どうせ鉄道や主要道は敵兵より通れず、家には帰れないだろうという意見が主力だった。家に帰りたいなどと発言する雰囲気ではなかった。山籠もりで明林寺は集議一決?したところで、他の寺はどうしているかということで、閑空院の偵察に二人ばかり出て行ったが、飛んで帰ってきて、
「山籠もりなどとんでもない。閑空院の連中は、裏の竹山から竹を切り出し竹やりを作っている。米兵来たりなば、これで切り死だ。」
とのこと。
「その前を山籠もりなどと、ぞろぞろと通ったら連中に刺し殺される。」
と言った。そんな混乱の中、教授より、
「明日より各自準備できしだい帰省し、自宅で後日の指示を待つように。」
と連絡がきた。一朝事ある時にと非常時を想定して、食料を備蓄していたのを全部出し、全員で料理し、益子に来てから一番の晩餐を鱈腹食った。本当にうまかった。夜になってからの裸電球の明るかったことが、強く目に焼きついている。
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総願偈
総願偈
衆 生 無 辺 誓 願 度
煩 悩 無 辺 誓 願 断
法 門 無 尽 誓 願 知
無 上 菩 提 誓 願 証
自 他 法 界 同 利 益
共 生 極 楽 成 仏 道
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| 後記 |
| 本郷兄より、卒後五十年記念誌の原稿依頼があり、又諸川兄よりは五月中旬でも良いからと連絡をもらった。今年四月でやっと郡市医師会長を退任できたので、慌てて益子に二度行き役場観光協会で資料を集め、各寺を廻り写真を取り、やっと書けた。これまで、益子には五、六回行っているが、今回久しぶりに行き、すっかり陶芸の町として、近代的な町並みに大きく変貌していたが、昔の町並みも残っていた。三つの寺では皆、本堂からお堂、鐘楼等は全く変わっていなかったが、住職の家は皆豪邸に、門は立派に、裏の墓は新しい墓石になり、その辺に寺の豊かさの元があるように思えた。明林寺の本堂などは、濡れ縁がなくなっていたので、一廻り小さくなったように見えた。明林寺から閑空院への道も広がり、両側に歩道ができ、人家の間に店、コンビニ、小工場などがあり変わってしまった。 |
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| 宮川兄のこと |
宮川兄とは、埼玉県医師会代議員として二十数年前より年三、四度開催される総会で会っていた。小生、十年前、北埼玉郡市医師会長に就任し、毎月一度会長会がある。二期遅れて(一期二年)、宮川兄が北飾南部医師会長にさせられ(本人曰く)、会長会で毎月会うようになった。懇親会旅行にも同行し、平成十一年十二月の忘年会では、元気で又来年宜しくと言って別れたのが最後となってしまった。翌十二年一月、埼玉県医師会囲碁大会で対戦中、事務局長より、
「宮川先生が倒れ意識不明で入院され、脳出血のようです。」
と知らされた。驚き、声もなく、その後の対戦はさんざんだった。危篤状態が続き、一週間後に亡くなられた。悲嘆の通夜、葬儀に参列したが、会長をやめる時は一緒にと話していたのに先にいかれてしまい、無情をしみじみ感じ、心から宮川会長のご冥福を祈る次第です。 |
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